悩んで、迷って、みんなで話しあって決めたことだから… 【看取りのはなし】
「あれでよかったのか」という問いが生まれるわけ
大切な人を見送ったあと、あるいは看取りの場面のただ中で、頭に浮かぶことがあります。
「最期は家で看てあげたかった」
「でも施設に入ってもらってよかったのかな」
「延命を断ったのは、正しかったのか」
こういった問いは、後悔のように見えて、後悔じゃないとわたしは思っています。それは、それだけ真剣にその人のことを考えたから出てくる問いです。
どうでもいい相手のことで、人はそこまで悩みません。
「違う選択をしていたら、もっとよかったかもしれない」という考えは、どこまで行っても確かめられません。もし別の道を選んでいたとしても、そこには別の後悔が生まれていたかもしれない。どちらの未来も、今となっては誰にもわかりません。
わかるのは、あのとき家族が持てる情報を集めて、悩んで、相談して、選んだ、という事実だけです。
「適当に選んだわけじゃない」という大前提
ここで、大事なことを確認させてください。
介護や看取りの場面での選択は、たいていものすごく考えた末の選択です。
病院に相談した。ケアマネジャーに話を聞いた。きょうだいで何度も話し合った。夜中にひとりで調べた。そういう積み重ねの上に、あの選択があるはずなんです。
「情報が足りなかった」と感じる方もいるかもしれません。でも、当時の自分が知りえた情報の中で、できる限り考えた。それは事実です。
介護の現場では、判断を迫られる場面が突然やってきます。「明日までに決めてください」「今夜、ご家族で相談して」という場面が、珍しくない。
だから、あのとき選べた中から選んだ、というのが正確な表現です。無数の選択肢の中から気まぐれに選んだわけじゃない。あのときの家族にとって、それがいちばんいいと思えた選択肢を選んだ。
そういう選択を、なぜ間違いと呼べるんでしょう。
「正解」は選んだ後に作られていく
もうひとつ、伝えたいことがあります。
「正解の選択をした」というより、「選んだ選択を正解にしてきた」という見方もできると思っています。
施設に入ってもらうことを選んだなら、そこで少しでも笑顔でいてもらえるように面会に通った。在宅で看ることを選んだなら、最後まで手を握っていた。延命処置をしないと決めたなら、そのそばでずっと付き添っていた。
選択のあとに、家族はいつも何かをし続けています。その行動のひとつひとつが、あの選択を正解に変えていくんだとわたしは思います。
悩んだあなたを、責めないでほしい
最後に、これだけ言わせてください。
介護の選択で悩むのは、愛情があるからです。大切に思っているからです。
「もっとうまくできたんじゃないか」と思う気持ちは、その人を大事にしていた証拠です。そういう気持ちを持てること自体、すごいことだとわたしは思います。
ただ、その気持ちが「自分を責める材料」になってしまうのは、見ていてつらいです。
悩んで、迷って、話し合って、それでも決めた。それは、家族にできる最善を尽くした、ということです。
最終的なご判断や、今まさに悩まれていることについては、担当のケアマネジャーや主治医など、信頼できる専門家にもぜひご相談ください。一人で抱えなくていいんです。
この記事は、今まさに選択に悩んでいる方にも、見送ったあとで揺れている方にも、届いてほしいと思って書きました。どうか、ご自身をやさしく扱ってあげてください。
現役のケアマネジャー(主任介護支援専門員)。在宅介護の家族に「ちょっと隣にいる人」がいたらいいなと思ってこのブログを始めました。猫のこまりとお届け中。
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