親を許せなくてもいい。わたしが少し楽になれた「捉え方」の話
親の介護をしていると、ふっと昔の記憶がよみがえることがあります。
「なんであんなことをされたんだろう」「ずっと怖かったな」「あのとき、もっと味方になってほしかった」。 そういう気持ちが、介護の疲れと重なって、じわっと胸に来ることがある。
わたしにも、そういう時期がありました。 今日は、how-toじゃない話を書きます。ちょっとした覚え書きとして。
実は、わたしの父はなかなか厳しい人でした
これは告白みたいなものです。
わたしの父は、いわゆる「昭和の厳しい父親」というやつでした。 怒鳴ることが多かったし、感情的に叱られることもあった。 褒められた記憶がほとんどない、という人は、意外と多いと思います。 わたしもそのひとりです。
介護の仕事をしていると、似たような話をたくさん聞きます。 「親の介護をしなければいけないとわかってはいるけど、昔のことがあって、どうしても気持ちが動かない」。 「感謝なんて、正直できない。でも、それでいいのか不安で」。
そういう声を、家族の方からもらうたびに、わたしは「ああ、わかる」と思うんです。 他人事じゃないから。
長い間、わたしも父に対して、何かが引っかかったままでいました。
船から落ちたとき、どう思う?
あるとき、こんな話を考えたことがあります。
大海原に浮かぶ船から、誰かが誤って落ちたとします。 そのとき、どう思うか。
「なんだよ、ついてない。最悪だ」と思う人もいれば、 「波に揺られながら空を見上げて、ああ、生きてたな」と思う人もいる。
どちらが正しいか、という話じゃないんですよね。 同じ出来事でも、どこに目を向けるかで、感じることはまるで変わる。
「あの人に、ひどいことをされた」という事実は変わらない。 「あのとき、すごく悲しかった」という記憶も消えない。
でも、その出来事をどう意味づけるかは、案外、自分で選べる。
父を許せなくてもいい。感謝できなくてもいい。 ただ、「捉え方」というものは、変えようと思えば、変えられる。 そのことに気づいたのが、わたしにとっては大きかった。
変えようとしたら、少し景色が変わった
わたしが試みたのは、大げさなことじゃありません。
「父がどういう時代に育ったか」「どんな苦労があったか」を、ちょっとだけ考えてみた。 それだけです。
理解した、とか、許した、とかじゃないんですよ。 「ああ、この人にもそういう事情があったのかもな」と、ほんの少しだけ見方を広げてみた。
そうしたら、同じ記憶なのに、少し違って見えてきた。 怒鳴られたあの日に、父がどんな顔をしていたか。 あのとき、父にも何かがあったのかもしれない、と。
景色が変わったとまでは言えないけれど、何かが、ほんのすこし、軽くなりました。
無理に許さなくていいし、今すぐ変えなくていい
ひとつだけ、念押しをさせてください。
今すぐ変えなくていい、ということです。 これを読んで、すぐに気持ちが切り替わる必要はないし、「よし、捉え方を変えよう」と気合を入れる必要もない。
無理に変えようとしなくて、大丈夫です。
「そういう見方もあるんだな」と、ちらっと頭の片隅に置いておくだけで十分です。 親を許せない自分がダメなわけじゃない。わだかまりを持ちながら介護している自分を、責めなくていい。
ちょうど、こんな記事も書いています。 介護で怒鳴ってしまった。自分を責めすぎないための話
介護中に感情が出てしまうのは、人間として自然なことで、そこに罪悪感を乗せすぎないように、という話です。 捉え方と、少し通じるところがあると思います。
わたしが、少し楽になれた理由
わだかまりを抱えたまま、親の介護をするのは、正直、しんどいです。
体の疲れだけじゃない。「なんでわたしが、この人のために」という気持ちが、どこかでずっと、じわじわと消耗してくる。 それは、ちっともおかしいことじゃありません。わたしも、長いあいだ、そうでした。
でも、見方をほんの少しずらしてから、自分の中で変わったことがあります。
父のことを「好きか、嫌いか」「許せるか、許せないか」で考えるのを、いったん、やめてみたんです。 そのかわりに、「あの記憶は、もう過去のことだ」と、過去と今を、そっと分けてみた。 そうすると、昔のわだかまりと、今、目の前にあることが、少しずつ、別々のものに見えてきます。
父を好きになれたわけじゃありません。許せたわけでもない。 それでも、ずっと張っていた肩のあたりが、ふっと、下りました。
それに、親は、いつか先に旅立っていきます。でも、わたしたちの人生は、その後も続いていく。 過去のわだかまりに、これから先の自分の時間まで、ぜんぶ預けてしまうには、人生は、少し長すぎる。 そう思えるようになってから、わたしは、ずいぶん楽になりました。
最後に、陽射しのこと
捉え方を少しずらしてから、わたしに起きた、いちばん地味な変化を話して終わりにします。
朝、窓から陽射しが入ってきたとき、「ああ、幸せだな」と思えるようになった。 それだけです。
大げさじゃなくて、本当にそれだけ。
昔は、そういう瞬間も「で、今日は何をしなきゃいけないか」と頭がすぐ動いていました。 でも今は、陽射しのあたたかさを、しばらく受け取れるようになった。 見方ひとつで、日常の中の小さなものが、ちゃんと幸せに見えてくる。そういうことが、少しずつ積み重なっていきます。
そういえば、「有難い」って、“有ることが難しい”——“当たり前じゃない”という意味だと、どこかで聞いたことがあります。 陽射しが入ってくることも、朝、目が覚めることも、よく考えたら、当たり前なんかじゃないんですよね。そう思うようになってから、朝の陽射しまで少し違って見えるようになりました。
わだかまりを抱えながら介護しているあなたが、少しだけ肩の力を抜けたなら、それで、じゅうぶんです。
ひとりで抱え込まず、話せる人がいたら、ちょっとだけ話してみてください。 そばにいる人が誰もいなければ、またここに来てください。
現役のケアマネジャー(主任介護支援専門員)。在宅介護の家族に「ちょっと隣にいる人」がいたらいいなと思ってこのブログを始めました。猫のこまりとお届け中。
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